Column
マニアでない方も理解できるよう執筆していこうと思います。



 5    George Harrison
 ビートルズには、ジョン・レノン/ポール・マッカートニーという、とてつもなくビックなソングライターがいた。このカリスマ的な2人の影響で、どうしてもジョージ・ハリスンの影は薄くなってしまった。当時世間では「静かなビートル」と呼ばれていたが、決してジョージ・ハリスンの才能が無かった訳ではない。今回のコラムは、ジョージ・ハリスンの生い立ち、素顔、偉大さを伝えていきたい。読み終えたとき、ジョージ・ハリスンやビートルズの偉大さが伝われば幸である。
ジョージ・ハリスンは1943年2月24日、父ハロイドと母ルイーズの間に4人姉弟の末っ子としてリバプールに生まれた。家は労働者階級の家庭で、決して豊かな生活ではなかった。しかし、ジョージは優秀で、小学校の共通学力テストでは高成績を取り、名門リバプール・インスティチュートに進学した。この頃からギターを始めたジョージは、同じ学校に通うポール・マッカートニーと出会う。音楽仲間ということもあり、二人は仲良くなり、ポールは自分が参加していたジョン・レノン率いるバンド、クォリー・メンのメンバーにジョージを推薦し加入させた。ジョン曰く、加入を認めた理由は、自分より多くのコードを知っていたからだそうだ。こうしてビートルズの礎が築いていったのである。
その後、クォリー・メンはバンドオーデションに合格し、ビートルズと改名した。初のハンブルク公演では、一日何時間ものステージをこなした。その結果、バンドの評判は地元中に広がった。リンゴ・スターを迎え入れたビートルズは1963年、「ラブ・ミー・ドゥ」でデビューを飾った。その後もビートルズの勢いは増し、全欧・全米に飛び火していく。出すレコードは全て驚異的な記録で売れ、映画までも作られた。こうしてビートルズは世界最高のポップ・スターとなった。
 初期のビートルズにおけるジョージは、ソングライターとしては未成熟だった。リード・ギターとコーラスというのが何よりの証拠だろう(ビートルズは作曲に関わった人がリード・ボーカルをとるというのが慣わしである)。ソングライターとしての変貌は「ラバー・ソウル」からであろう。「ノルウェーの森」でシタールと出会ったジョージは、インド音楽に目を向けていくことになる。シタールを本格的に学ぶために、ラビィ・シャンカールに弟子入りしたジョージはインド音楽にのめり込んでいく。このインド音楽との融合が、ジョージらしい捩れた音楽を生み出していくことになり、ビートルズの中、後期にかけて発展していく音楽の要になっていると思う。また、当時まだあまり使われていなかったシンセサイザー導入し、ビートルズのサウンドを大きく転換させた。当時から親交があったエリック・クラプトンと共にレコーディングした「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」や、傑作の「サムシング」、「ヒア・カム・ザ・サン」で、ジョージのソングライターとしての地位は不動のものとなる。
70年代になりビートルズが解散すると、ジョージの才能が一挙に開花する。自身初のソロアルバム「オール・シングス・マスト・パス」は、各国のチャートで1位となり、今でも高く評価されている。また、バングラディシュの難民を救済するチャリティーコンサートを行い、莫大な収益を寄付した功績も称えられた。その後も様々な曲を発表し、ライブ活動をこなしていった。80年代はジョンの追悼の曲「過ぎ去りし日々」や、大ヒットアルバム「クラウド・ナイン」をリリースし、チャールズ皇太子主催のコンサートに出演した。しかし、音楽活動はマイペースで、子育て中心の生活を過ごした。
 90年代になるとジョージは再び活動を開始する。91年にはエリック・クラプトンを従えての日本公演が行われた。94年にはポール、リンゴと共に「フリー・アズ・ア・バード」、翌年には「リアル・ラブ」のオーバーダビングをし、久々にビートルズとしてのCDをリリースした。後にジョージは、最も長い間ヒットを飛ばし続けた男としてギネスブックに載ることになり、皮肉にも「解散して一番得をしたビートル」と呼ばれるようになる。
 音楽活動は絶好調だったジョージだが、97年に喉頭ガンが見つかり手術を受けた。術後は良好で、ガンを克服したジョージは新曲のレコーディングに取りかかった。しかし、99年の暮れに邸宅に暴漢が入り刺されてしまう。幸い大事には至らなかったが、01年5月に肺ガン、7月には脳腫瘍が発見された。肺の片方を摘出し、放射線治療を受ける傍らレコーディングを続け、10月2日までセッションを続けた。自分の余命が残りわずかと気付いていたジョージは、11月12日ニューヨークで、ポールやリンゴ達と“最後の晩餐”を行い、別れを告げた。確かな情報ではないが、一部の報道ではこの時、元メンバーと泣きながら抱き合ったといわれている。治療に耐えられなくなったジョージは、11月29日午後1時30分頃、妻オリビアと息子ダニーに見守られながら、バビリーヒルズの友人宅で永遠の眠りについた。58歳だった。なお、ジョージの遺灰はゆかりの地、インドのガンジス川にまかれた。
 なお、ジョージという人物は、非常に神への信仰心が強い人物であつた。マントラ(瞑想みたいなもの)をメンバーに勧めて、マハリシ・マヘシ・ヨギと共に山籠もりしたり、亡くなる直前にはファンの不安を心配して「神のご加護を、心配しないで」と発言したりもしている。ジョージはきっと天国で世界泰平を祈っているだろう。
 
 


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